市民が選び贈る第23回基金賞 応募・推薦締め切りは10月末です 第23回平和・協同ジャーナリスト基金賞への推薦・応募の締め切りは2017年10月末です。授賞に値する優れた作品、活動をご推薦ください。どなたでも推薦できます。自薦でもかまいません。対象は反戦、平和、反核、軍縮、協同・連帯、人権擁護などに関する作品、活動です。 対象となる作品は2016年11月から2017年10月までに発表されたものです。新聞、週刊誌、月刊誌、ミニコミ紙などの記事、単行本、写真集、映画、テレビ番組、ビデオ、DVDなど。ネット上の作品は対象としません。 記事類は実物かそのコピー、単行本は本そのもの、ビデオ、DVDやテレビ番組はそのコピーを、それぞれ簡単な推薦理由(A4で1枚程度)を添えて下記にお送りください。返却が必要な場合はその旨を明記してください。 なお、昨年の第22回平和・協同ジャーナリスト基金賞への応募・推薦は合わせて69点でした。このうち8点に基金賞を贈呈しました。 〒107-0051 東京都港区元赤坂1-1-7-1103 平和・協同ジャーナリスト基金運営委員会

 第22回基金賞受賞者のスピーチ

2016年12月10日、日本記者クラブで

 

  平和・協同ジャーナリスト基金は2016年12月10日(土)、東京・内幸町の日本記者クラブ大会議室で第22回平和・協同ジャーナリスト基金賞の贈呈式を行いました。基金賞を贈呈したのは以下の2団体と10人です。

 

◆基金賞(大賞)(1点)

 毎日新聞夕刊編集部の「夕刊『特集ワイド』における平和に関する一連の記事」

◆奨励賞(7点)

 ★ノンフィクション作家、

      大塚茂樹さんの「原爆にも部落差別にも負けなかった人びと」(かもがわ出版)

 ★原爆の図丸木美術館学芸員、

      岡村幸宣さんの「≪原爆の図≫全国巡回――占領下、100万人が観た!」(新宿書房)

 ★よしもと所属の夫婦漫才コンビ・

      DAYSJAPAN編集委員、おしどりマコ・ケンさんの原発問題での情報発信

 ★金澤敏子、向井嘉之、阿部不二子、瀬谷實さんの

   「米騒動とジャーナリズム」(梧桐書院)

 ★上丸洋一・朝日新聞記者の「新聞と憲法9条」(朝日新聞出版)

 ★瀬戸内海放送制作の「クワイ河に虹をかけた男」

 ★森永玲・長崎新聞編集局長の

   「反戦主義者なる事通告申上げます――消えた結核医 末永敏事――」(長崎新聞連載)

 

  贈呈式では、受賞団体代表と受賞者のスピーチがありましたので、その要旨を紹介します。

 

 基金賞(大賞)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平野幸治さん 毎日新聞夕刊編集部長

 

  書かなきゃいけない記事を

 

 毎日新聞が夕刊編集部を作って特集ワイドを始めたのが1997年です。基本コンセプトは「デイリーマガジン」。書きたい記事より読みたい記事を、ということでやっております。

 今、新聞は深刻な読者離れ。とくに夕刊離れがひどい。で、デイリーマガジン雑誌風の思い切ったつくりとか、「書きたい記事より読みたい記事を」を主眼にして、あらゆるジャンルの記事をやっている。SMAP、福山雅治、トレンド、政治、経済、なんでもやる。が、東日本大震災、政権交代、安倍政権の誕生で、僕らの仕事も大きく変わったように思う。「書きたい記事より読みたい記事を」多少わきに置いといても「書かなきゃいけない記事」というのが出てきてしまったということです。最近の見出しをご紹介すると、「土人発言をかばうこの国の空気」とか「自民党、偏向教師密告サイトの波紋」など。随時掲載で「この国はどこへ行こうとしているのか」というサブタイトルで大型インタビューもやっている。去年は「平和の名もとに」というサブタイトルをつけて、安保法制に反対する立場の方をずっと取り上げた。原発再稼働に関する動きも伝えている。

 今回は、おそらくそんなところを評価していただいたかなと思う。素晴らしい賞をいただいたので、これを励みに今後とも意味のある記事を書いていきたい。

 

 奨励賞

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大塚茂樹さん ノンフィクション作家

 

 地域の皆さんとの共同作業

 

 この仕事を早く実現するために長年勤めた岩波書店を定年前に退職した。現地取材は3年間に25回にのぼる。広島市福島町を中心とした地域は西日本有数の都市部落として知られ、加えて爆心地から約2kmの距離にあって原爆被害を受けた。部落差別と被爆の二重の苦しみ、そして、貧しさにも直面しながら、この地域がいかに苦難を乗り越えてきたのか。60数人の肉声に耳を傾け、人間の顔が浮かび上がってくる叙述を目指しました。

 部落差別や被爆の苦しみを跳ね返そうとしてきた。町は見違えるように変わり、差別の根拠となる地域格差は消失した。そう語る人たちが本書の主人公です。

 何よりも人々の心情に迫るよう心がけた。丹念な聞き取りは重要だが、「無断で活字にしない」という約束を守った。涙とともに心の奥底を語ってくれた人のプライバシーを守ることも必須でした。どうやら、金もうけや立身出世が目当てではなさそうだ、という信頼をもっていただけたように思う。部落問題にもかかわる本で地域住民が実名で登場し、顔写真を掲載させている本は珍しいのではないか。

 福島地区で戦前、戦後を歩んできた人たちの長く厳しい道のり。それを描くことはこの地区の皆さんとの共同作業でした。

 

奨励賞

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岡村幸宣さん 原爆の図丸木美術館学芸員

 

 巡回展を見た人たちのその後を追う

 

 思いもよらない賞をいただき、うれしい。思いもよらないというのは、丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」については、すでに多くのジャーナリスト、美術評論家によってたくさんの仕事がなされているので、丸木美術館学芸員の私が何か新しいものを開くことができるとは思っていなかったからです。ですが、8年前に、丸木夫妻が残された段ボール箱の中から、ガリ版で刷られた、「原爆の図」全国巡回展の記録を偶然見つけ、それが私を導いてくれた。

 「原爆の図」巡回展では、100万人がこの絵を見た。その一人一人がどのように絵と向き合って何を思い、どのように生き方を変えていったのかというところが少しでも伝わればと思って調査を続けてきた。それをまとめたのが今回の著書で、「原爆の図」に関わった人々がこの本の主役です。美術館の方々、ご遺族、出版社にも大きな力をいただいた。

 何よりも今一番思い起こすのは、展覧会に関わった一人の方の言葉です。「今まで沈黙を貫いてきたけれども、いつか展覧会のことを聞きたいと言う人が現れると思っていた」と言って涙を流した。その方はもうこの世にはいません。丸木夫妻、絵を持って全国を巡回した方々、話を聞かせてくださった方々にこの賞をささげたい。

 

奨励賞

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金澤敏子さん

細川嘉六ふるさと研究会代表

 

 民衆の側にいた新聞記者

 

 5年前まで北日本放送で、アナウンサー、ディレクターをしていた。退職後、ディレクター時代に自分が取材したものを、今度は本という形で記録として残したいという思いがあり、調査してまとめたのが賞をいただいた『米騒動とジャーナリズム~大正の米騒動から百年~』です。

 米騒動は、大正7年に起きた「越中の女一揆」として知られているが、富山県の漁師町で暮らすおかかたちが、米の価格が暴騰するのはおかしい、適正価格で売ってほしいと起こした抗議行動が発端で、全国に波及した。日本で最初の民衆運動とも新聞を巻き込んだ市民運動の原点とも言われる。

 だったら、その米騒動を新聞はどんなふうに報道していたのか。4年かけて当時の新聞記事を6000点集めた。そこで分かったのは、当時の新聞記者たちはすごい情熱をもって書いていたということでした。おれたちの国には貧しい人がいっぱいいるぞ、こんなことで本当にいいのかと。そして、新聞記者たちのエネルギーが内閣を倒したのです。新聞が、あの当時はエネルギーを持っていたことを忘れてはいけない。

 再来年は米騒動100年。私たち市民は今のままでいいのだろうか、米騒動のおかかたちのように連帯して行動を起こす時ではないか。ジャーナリズムは、いま自分たちの言いたいことを言っているだろうか、覚悟を込めて褌をきゅっと引っ張って発信しているだろうか。私は今、そう感じております。

 

奨励賞

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おしどりマコ・ケンさん 夫婦漫才コンビ

 

 必要な情報を引き出すために

 

 お二人は仕事のかたわら、東京電力福島第1原発の爆発以来、事故に関する情報発信を続ける。本当に必要な情報が出てこない状況に疑問を抱いたためで、東電や政府の記者会見にも出席して質問をぶつける。贈呈式では、掛け合い漫才で自らの活動を紹介、会場をわかせた。以下はその一部です。

 

マコ:私は、東京電力の記者会見をずーっと書き起こしたんです。3週間ほど。

ケン:インターネットで中継をやっていました。

マコ:テレビと新聞のニュース、原発事故のニュースが作られる基は記者会見じゃなかろうかと。会見書き起こしはノート20冊くらいになって。それを見て、記者会見ですらなかなかフェアに情報が出てくる状況じゃないということを知って驚きまして。それと、質疑応答で記者さんの名前と所属媒体と質問内容を知り、情報を誰が取材をしているのかもっと注目すべきだと思ったんですね。男性なのか、女性なのか、若いのか、年配の方なのか、原発推進の考え方なのか、反対の方なのか。同じ情報を受けても、出てくる記事は取材者によって全然違うということに気づいたんです。

ケン:はい!

マコ:いろいろ考えた末に、自分が記者会見に行って、質問をしようということに。あえて芸人のおしどりです、と名乗って質問することで、どういう人が情報を調べているのか、記事を書いているのか、情報の発信者は誰なのかにもっと(視聴者の)注目がいくのでは、と思ったんですね。

ケン:いろいろありましたね。

マコ:そうこうしているうちに、記者会見にもっと私たちより素晴らしい、原発に詳しいジャーナリストがたくさん来て、バンバン取材をし始めるに違いないと思っていたんですけど。ふたを開けてみたら、東電の記者会見は私たちが出席回数最多になって。最もベテランになっているんですよね。あの記者さんは新しいけどなかなかがんばっているよ、というようになるといい。おこがましいんですけど、私たちも賞を渡す側になりたいなと。

ケン:なるほどね。本当ですよね。

 

奨励賞

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上丸洋一さん 朝日新聞記者

 

 新聞は9条にどう向き合ってきたか

 

 二度目の受賞です。最初は『原発とメディア~新聞ジャーナリズム二度目の敗北~』で。今回は『新聞と憲法9条』という本でいただいた。憲法制定から60年安保の間、新聞は憲法9条や社会の動きをどう書いてきたのかということを、朝日新聞を中心に他の全国紙や地方紙にも目配りしながら書いたものです。

 その中で気づいたいくつかの点を紹介したい。

 戦後日本は「平和国家」として再生するが、「平和国家」という言葉を最初に使ったのは昭和天皇でした。これから日本はどのような国として立っていくかを示したのは天皇であって、国民や新聞ではなかった。新しい憲法草案を作る動きも民間にはあったが、新聞は自ら提起することなく、占領軍の出方をただ見守っていた。

 日本はサンフランシスコ講和条約に調印し、沖縄は米軍による統治の継続が決まる。が、各紙は社説で論じることはなかった。講和条約と同時に日米安保条約が結ばれるが、条約と憲法の関係について論ずる新聞はなかった。講和後の再軍備論議では、ほとんどの新聞が憲法を改正して自衛力を保持するよう論じた。自衛隊が発足すると、新聞は憲法擁護に転じる。つまり、憲法9条と自衛隊を両立させることによって改憲から憲法擁護に転じた。砂川事件最高裁判決は、米軍駐留を違憲とは認められないと判断、その理由は、外国の軍隊は日本政府の指揮下にはないからとした。が、新聞はこの判決を批判しなかった。

 戦後の新聞ジャーナリズムは9条の空洞化を目の前に見ながら、自衛をどうするのかという難題を前に、政策判断を優先させて根本的な批判を避けてきたように私には思える。集団的自衛権の行使容認、安保法制成立で9条は正念場を迎えている。

 

奨励賞

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

満田康弘さん 瀬戸内海放送報道クリエィティブユニット副部長職

 

 普遍性あった長瀬さんの行為

 

 たくさんの候補の中から選んでいただき驚いている。

 映画で取り上げたのは長瀬隆さん。岡山県倉敷市で英語塾をされていて、元陸軍憲兵隊の通訳でした。シンガポールなどで勤務した後タイに赴任、そこで「戦場にかける橋」で有名な泰緬鉄道の建設工事にかかわる。その間、病気、栄養失調、虐待などで捕虜やアジア人の労務者が多数亡くなった。

 このことに長瀬さんは心を痛め、戦後、慰霊と和解の旅を始める。亡くなるまでに135回タイに行かれた。私が長瀬さんの取材を始めたのは1991年。20年間お付き合いさせていただき、その映像をまとめたのが今回の作品です。

 ここまで長くやってこられたのは、長瀬さんがやってこられたことに普遍性があったからではないかと思う。戦争というと、対アメリカ、対イギリスのことばかりが話題になるが、戦争が闘われた地域の人や、いやおうなしに戦争に巻き込まれた人々に対する意識が飛んでしまっている。長瀬さんは、迷惑をかけたタイの人、亡くなったアジア人に思いをはせ、現地に残されたアジア人の労務者にも支援を続けた。戦争に巻き込まれた全ての命に対して敬意をもって活動されていた。そこに普遍性を見たから、ここまで長く続けてこられた。

 つたない映画ですが、見て下さい。今回の受賞は大きな励みになった。

 

奨励賞

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

森永 玲さん 長崎新聞編集局長

 

 抹殺された反戦医学者

 

 賞をいただいた連載記事は『反戦主義者なる事通告申し上げます―消えた結核医 末永敏事―』。私も今年に入って知った人物です。長崎県出身で、大正から昭和にかけ国際的に活躍した結核の医学者と言ってよく、私も取材する度に大変興奮し、その興奮を読者に伝えたくて書いた。

 1938年に反戦言動で逮捕される。この年、国家総動員法が施行され、国民はみな職業を登録しなければならなくなり、末永も登録するが、その際「拙者が反戦主義者なること及び軍務を拒絶する旨通告申し上げます」と書いたからです。このため、医学者としての地位を失い、昭和20年に亡くなる。彼は内村鑑三の弟子。内村は日露戦争で非戦論を唱えたが、末永はこれを地で行くわけです。

 埋もれた人物の発掘が目的だったが、戦前の言論統制とか思想弾圧を現在の状況に照らし合わせて描き出したいという意図もあったので、治安維持法の関係者で生存している方に会って話を聞いた。私なりに分かったのは、言論統制、思想弾圧は国家権力の暴走によって起こるという認識だけでは足りないということでした。新聞もその先頭に立っていたのです。

 読者の反応は、驚くほど肯定的。地元にすごい傑物がいたという意味で喜んだ方も多いと思うが、一方で現在の風潮と重ね合わせて読んだという手紙もかなりいただいた。

 

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